朝来の三兵衛は、農民の苦しみを救おうとし藩の役人の悪政に抗議し、そのため死刑に処せられた義民だと伝えられています。
当時、年貢を取り仕切るために、毎年郡奉行の一行が稲作検分に来たが、村民の一ヶ月の運定めになるので、ほとんど総出で数日間接待するのがならわしでした。やっと終わって一行が帰ると、今度は代官がやってきて同じように(稲のできを調べ、年貢高を決めること)をします。これまた郡奉行のとき以上に、もてなすことになっていたのです。こうしたことで、手数がかかり経費がかさむので、農民の迷惑と負担は一通りでなかったのです。三兵衛は、これを改めさせようとして、近村の庄屋たちと話し合い、郡奉行の巡検が有害無益なことを指摘して、中止するよう申しました。そこで代官が事実調査を始めたが、各村の庄屋たちは、自分が不利になることを知って口を閉ざし、責任を三兵衛一人にかぶせてしまいました。三兵衛が取り調べられることになり、妻も土地のために尽くすよう夫を励ましました。三兵衛は決意して自説を通そうとしました。そのため、獄に入れられたが、そこでも主張をやめなかったので、事実を曲げて官にたてつくものとして、簾巻きにして海に投じられ、いたましい犠牲となったといいます。
このことがあって、翌年から郡奉行の巡検は廃止となり、村民の負担が軽減されたが、人々は、官権の圧迫を恐れて、この義民のことを口にしませんでした。しかし、後に円鏡寺に石碑が建てられ、今に尊敬と感謝をうけています。
<熊野文庫より引用>