三宝寺

上富田町岩田の三宝寺は(日本の禅宗の1つ)であるが、この寺の一隅に立像の阿弥陀如来がまつられています。
昔、岩田の立平という所に善兵衛という百姓がいました。中年すぎから仏像修行を志し、家督をこどもにゆずって自分は六十六部になり、諸国の寺々を回っていました。あるとき、(現在の鳥取県の西半部)の高尾山というところで日が暮れ、宿を探していたところ、一軒の荒れ果てた小さなお堂を見つけ、これ幸いと一夜の宿りをすることになりました。
旅の疲れか、ついうとうとしていると、夜中に「これ、善兵衛、善兵衛」と起こす者がいます。「わしはなあ、このお堂に祀られている慈覚大師作の阿弥陀仏である。住み家のお堂もこんなに傷んでいるのに誰もかまってくれない。おまえの国は温い住みよい国だという、どうかわしを、おまえの国へ連れて行ってくれ」という声にハッと我にかえると、夢でした。不思議なことがあるものだと、翌朝明るくなって辺りを見回すと、ゆうべ夢に出てきた阿弥陀様とそっくりな仏像が、ほこりにまみれて立っています。善兵衛はあまりの不思議にびっくりしたが、これこそ正夢であろうと大いに喜び、きっと夢に託して私に語りかけてくれたのに違いないと思いました。しかし、背負ってお連れしようとすると、阿弥陀様はうそのように軽いのです。背丈一メートルもある木像となると、相当重いのを覚悟していたのに、あまりの軽さに、いよいよこれはただごとではない、これは阿弥陀様が私に連れて行ってくれとの、たっての望みに違いない、と、一層信念を募らせて帰国の途につきました。
しかし善兵衛には、まだ筑前博多近くの観世音寺へ詣りたいという念願がありました。そこで姫路近くの室津から便船で九州へ渡り、観世音寺の運照律師の許へ参じてこの阿弥陀仏のことを細かく物語りました。感動した律師からは授記をもらうことができました。
善兵衛は国許へ帰ってから、自分の家のかたわらへ仏堂を建て、朝夕ねんごろ供養を営んできました。その後、明治の中頃、子孫が北海道へ移住したため、この阿弥陀仏を菩提寺である三宝寺へ移したといいます。
後年牛の守り仏として、近在の博労(牛馬の仲買人)やお百姓から信仰されるようになり、牛の絵馬を奉納する者が多かったが、今では牛の飼育も少ないので絵馬も少なくなりました。
善兵衛は法号を本誉浄源大徳といい、元禄から宝永の頃へかけて活動した人であったといいます。北海道へ渡った子孫は後再びこの地に帰り、家業は栄え、信仰の厚い一家として信用されています。

 

<熊野文庫より引用>

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