救馬渓

上富田の救馬谷の小川といえば、紀南地方でもちょっと名の知れた霊験あらたかな観音様であり、風光の明眉なところとして知られています。この観音は自然の岩屋を利用してその中鎮座していて、参るには243の石段を登らなければなりません。
昔、この岩屋の中にという山賊が住んでいました。手下を大勢従えて里へ出ては、盗み・人殺し・女さらい等の悪事を働いていました。
この賊は悪賢く力も強かったので、誰も進んで討つ者がいません。
それをよいことにして暴威をふるい、人々を苦しめていました。
その頃、新宮にがいて、この国を治めていました。
思いやり深く人徳があったので、住民の信頼を受けていました。
たまたま口熊野のこの地方に、この高倉下命に従わない賊徒がいることを聞き、討伐の軍を進めることになりました。
討伐の軍は新宮方面からはるばる進んできたものの、救馬谷は守るに易く
めるのに難しい地形でした。しかも賊は天険によっています。まだよく国の開
けていない頃のことで、攻めるのも容易のことではありませんでした。
そのとき、攻囲軍の中に多計母致命という豪の者がいました。この者が夜陰に乗じて裏手から岩屋の上に登り、縄梯子を上から垂らして攻め入ったので、さしものもついにかなわず、討たれました。
それからはこの熊野の国には永く平和の日が続き、は朝廷からの信任も厚かったといいます。

上富田の救馬谷の小川といえば、紀南地方でもちょっと名の知れた霊験あらたかな観音様であり、風光の明眉なところとして知られています。この観音は自然の岩屋を利用してその中鎮座していて、参るには243の石段を登らなければなりません。
昔、この岩屋の中にという山賊が住んでいました。手下を大勢従えて里へ出ては、盗み・人殺し・女さらい等の悪事を働いていました。
この賊は悪賢く力も強かったので、誰も進んで討つ者がいません。
それをよいことにして暴威をふるい、人々を苦しめていました。
その頃、新宮にがいて、この国を治めていました。
思いやり深く人徳があったので、住民の信頼を受けていました。
たまたま口熊野のこの地方に、この高倉下命に従わない賊徒がいることを聞き、討伐の軍を進めることになりました。
討伐の軍は新宮方面からはるばる進んできたものの、救馬谷は守るに易く
めるのに難しい地形でした。しかも賊は天険によっています。まだよく国の開
けていない頃のことで、攻めるのも容易のことではありませんでした。
そのとき、攻囲軍の中に多計母致命という豪の者がいました。この者が夜陰に乗じて裏手から岩屋の上に登り、縄梯子を上から垂らして攻め入ったので、さしものもついにかなわず、討たれました。
それからはこの熊野の国には永く平和の日が続き、は朝廷からの信任も厚かったといいます。

<熊野文庫より引用>

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